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びゃくいのはな
白衣の華



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部下にスパイがいた責めを負ってみずから切腹し、
人体実験の標本になった、美貌の若い看護婦!







もれた情報






太平洋での戦局が日ごとに悪化していた昭和20年の春、中国大陸でも、アメリカからの大量の物資、空軍の援助もたのみにした中国軍が、全戦線で攻撃に転じ、わが軍は次第に押され気味になっていたのでした。

更に一帯の戦線地区では、わが軍の動向が、全て敵に察知されているらしく重大な作戦がことごとに裏をかかれる事態がおきました。将兵の士気は衰えや焦りが司令部幹部に見えて来たのです。

誰いうとなく、わが軍の内部に敵のスパイが潜入しているのではないかと噂が飛び、次第に広がっていきました。

軍当局は、軍機が漏れているという噂には否定的で無視し続けたのですが、この様に全軍の士気に及ぶ結果となっては無視し得なかったのです。
厳重な、しかしひそかな追求のすえ、情報部では、その噂の真相を知って驚愕したことでした。





情報は、後方の陸軍病院からもれており、さらにその背後に司令部の作戦室があったのです。
陸軍病院に南京(なんきん)で採用した三国人の美しい看護婦助手がおり、彼女が首脳者となって、おもに愛人である作戦本部付きの一将校からわが軍の兵力、装備動向といった情報をそれとなく聞き出し、パルチザンを通じて敵に流していたのでした。

軍法会議の結果、この女性スパイが死刑の判決をうけ、即時処刑されたことはいうまでもありません。

愛人の将校も、知らずとはいえ、重大な軍機をもらしたかどで銃殺されたのでした。

この事件は、次々と波及し、緩んでいた軍律の姿が明らかになり、更迭、左遷される幹部が相つぎ、未曾有の不詳事件に発展したのでした。

しかし、戦局のおりから士気の低下を恐れた軍当局は、真相をひたかくしにかくして終戦をむかえることになったのでした。

したがって、これにまつわる多くのエピソードや秘話も、ことごとに秘められたまま、簡単な公文書にとどめられたまま全てをほうむりさられたのでした。




切腹請願書



この混乱のさ中に新たに着任した司令官の石田中将は、着任のその日に、陸軍病院第二外科第一斑の班長をしている古谷芳江という看護婦から、血書の請願書を受け取って、たいへん驚きました。それには簡略に、おおよそ次のような主旨のことがしたためられてあったのです。

『今回、あのような不祥事件を起こし、多くのとうとい人命と天皇陛下の軍備を失うことになったことは、わたくしの班に犯人が寝起きしていたにもかかわらず、それも気づかなかったわたくしの、班長としての監督不行き届きと執務怠慢による責任であります。この事件の責任を取って自決することをお許しください』とありました。

彼はさっそく伝令を彼女のもとに走らせると共に、副官に、彼女の勤務状況資料を取りよせさせました。

古谷芳江、23歳、陸軍第五病院第二外科第一班班長、戦歴はすでに数年におよび、指導力統卒力にすぐれ、上官から信頼が厚く部下から尊敬されている──という主旨のことが書かれてあり、その書類上から想像できる古谷という女性は、どちらかというと、よくそのような立場にありがちな中性化した男まさりの偉丈夫(いじょうぶ)にちがいないときめこんでいたため、伝令に伴われて司令官室に姿を見せた人物が古谷芳江その人であることは、しばらく気づかなかったほどでした。

彼女は大柄な、均整の取れた体躯を制服につつみ、その健康そうなきめ細かな肌はきりっとした、かわいらしくさえ見える美貌と釣り合って、いかにも清純な、しかし女性らしい容姿のうちにも、小姓姿の若武者をしのばせる美しさだったのです。意外な面持ちで司令官は口を開いたのです。

『君が古谷君か』

『ハイ!』

『そうか、君の請願書は読んだが……今のわたしの段階では、なんともいうことはできん。しかし、君があの事件に責任があるとは思えんが……』

『おことばでございますが、もしわたくしがじゅうぶんに監督し、部下を掌握しておりましたら、今回の不詳事件は未然に防げたはずでございます。多くのかたが戦死なさって作戦がすべて失敗に終わった責任は、わたくしが職務に怠慢だったからでございます。軍律上の責任があるかどうかは別といたしましても、道義上はわたくしの責任でございます。……わたくしのために、このような不祥事をまねいたと思いますと……わたくしは申しわけなくて……なにとぞ、わたくしに自決をお許しください』





その美しいひとみにあふれる涙を見て、彼女の決心が堅いことを知った司令官は、ことさらに感情を殺して、

『君の真心はよくわかった。しかし、わしには今言ったように、君の自決を許す権限なぞない。わしは君の申請を軍法会議に上申してその裁決にしたがう以外にない。その決定があるまでは早まったことをしてはならんぞ、わしも少し考えてみたい。きょうは帰りたまえ』

古谷芳江を帰した中将は、重い心で軍法会議への上申書をしたためるのでした。

この請願を受けた軍法会議では、激論がかわされましたが、結論はなかなか出なかったのでした。しかし、ついに十日目に、一通の非公式文書が司令官のもとに届けられたのです。

それによれば、

『古谷芳江看護婦に関する公的な責任は認められないので、公式に処罰を行なうことはできない。しかし、不祥事の責任を痛感し、その責を一身に負う態度は軍人のかがみである。したがって、士気低下の昨今の事情を考えると、本人が望む以上、司令官の権限で自決を許すことはさしつかえない……うんねん』といったもので、公式には罪にはならないが士気昂揚(こうよう)のため彼女に自決させるのはよいことだ……という軍当局のこ都合主義を苦々しく思うとともに、彼女が決心をひるがえすことを望みながら伝令を彼女のもとに走らせたのでした。

この決定を顔を伏せてじっと聞きいっていた古谷芳江は、中将が話し終えると、心持ち上気した美しい顔をキット起こし、輝くひとみに心底を見せてキッパリと言い切ったのでした。

『いかに私に公式の責任がないとは言っても、それでは私の為に戦死された方々に申し訳がたちません。私は、血書を提出した時以来、既に、覚悟は決まっております。どうか、私の自決をお許し下さいませ。』

いかに説得しても彼女の心は堅く、変わらないことを見てとった司令官は、ついに彼女に自決を許す以外に道のないことを悟ったのでした。

『うむっ、わかった。わしは今まで、君の自決には反対だった。しかし、君の心がそんなに堅い以上、君に自決を許すよりしかたがない……よろしい、君の自決を許そう。ところで、いったい、どういう手段でやるつもりか……すでに考えてあるのじゃろう。薬品か拳銃か』

自決を許された彼女の燃えるようなひとみから、感激の涙がなおほおをつたうのを見のがしませんでした。

『ありがとうこざいます……ふつつか者ではございますが、古谷芳江も帝国軍人でこざいます。薬品や拳銃は用いたくございません。武士の自決はただ一つ、潔く切腹いたす覚悟でございます』

『何! 切腹を。女の君が腹を切るというのか。女の身で切腹ができるか』

『はい! ご心配はありがたく存じますが、かねがねこのことあるを思い、切腹のしかたを習っておりました。いかに苦しくとも、しそんじて見苦しいまねをいたすことはございません。どうか、わたくしの切腹をお許しくださいませ』






『そうか……それほどまでに覚悟した以上、万が一にも、しそんずることはあるまい……よし、許そう。りっぱに切腹してくれ……』

『ありがとう存じます。古谷芳江の本懐でございます……ところで、それにつきまして、あつかましゅうございますが、お願いがございます……』

『うむ、なんでも言ってみるがよい』

『ハイ……』

今までのりりしいはきはきとしたことばづかいが一瞬よどんだと見るまに、顔を赤らめて話し出したのです。

『実は……先日、勤務中に申しわけございません……服部軍医殿がノートをお机の上に忘れておいでになったので、つい読んでしまったのでこざいます。軍医殿は、腹部に傷をうけた患者の治療方法として、新しい薬品をつかって手術をなさる研究をしておいででこざいます。ところが、この研究には、最後にはどうしても人体でこの薬品の効果をためさなくてはならないのでこざいます。このために実験が行きづまり、たいへんお悩みのご様子でございます……。どうか、できましたら、わたくしのからだを実験のお役にたてたいのでございます……。わたくしも看護婦として医学の道を歩む以上、自決するわたくしのからだで、この研究がしとげられるものでございましたら、わたくしの不行き届きで戦死なさったかたがたへのたむけになると存じまして……』

ますます顔を赤らめて話すこの美しい娘の表情に、司令官はすべてを理解したのでした。軍医への思い、医学の将来、祖国、そうしたすべてを昇華した彼女の輝かしい表情に、司令官は深い感動で、芳江の美しい表情に見入るのでした。

と、同時に、先日珍察をうけた服部軍医の浅黒い男性的な容貌とガッシリした姿を思いうかべたのでした。

『しかし……その実験がどういうものかは知らんが、君にとってはたいへんな苦痛になるぞ、そこまでやりとげられる自信はあるのか』

『はい!自決を決意いたした時から覚悟はしていました。どんなに苦しくても立派に成し遂げる積もりです。』

『そうか……それまでに覚悟ができているなら……よし、わしが軍医と話し合ってみよう。自決についての詳細は、それから決めることにしよう。帰ってよい』

決意を全身に秘めた古谷芳江の姿は、その心のたかぶりを示すほおの色と相まって、まぶしいほどの美しさに感じたのです。

司令官は、この美しい、かわいらしいといえるほどの娘が、我がとわが腹を切りさばいて苦悶するさまを思いうかべ、複雑な心で、去っていく彼女の後ろ姿をじっと見送るのでした。




切腹を教える班長



部屋にもどった芳江は切腹への激情にたぎりたつ心をじっと抑え思いをこらすのでした。ついにかなえられた切腹。しかも、どんなに苦しんでももうあとに引くことはできないのです。

彼女と切腹を決定的に結びつけたのは、看護学校に入校した時から始まるのです。入校したての青い果実のような少女たちは、すぐいくつかの班に組まれ、各班に班長がつけられ、日常生活から戦線での心得などの指導に当たるのです。

古谷芳江を含む15名は、大野陽子という若い美しい班長の班に加えられました。大野陽子は、若い看護婦見習いたちのあこがれの的で、大野班に加えられることは、ほかの看護婦見習い生の羨望を集めることでした。



入学そうそうのある夜、体育館に班員を集合させた大野陽子は、皆に向かって、戦場での心得をていねいに説明するのでした。心持ち美しいほおを上気させてはきはきした口調で話をすすめる彼女のりりしい姿に、全員のひとみと尊敬のまなざしが熱っぽくそそがれるのでした。

『私たちが戦場に出た場合、いつ敵の手に捕えられるかわからない危険が身近にあるのです。しかし、私たちも帝国陸軍の看護婦です。おめおめと捕えられ、敵の手ではずかしめをうけるようなことがあってはなりません。そのような時のために、いつも肌身はなさず守り刀を身につけていて、いざという時には潔く切腹して果てるのです。

 このためには、皆が切腹のしかたぐらいは心得ていなければなりません。これからこの時間、毎晩切腹のしかたを練習したいと思います。このなかで、お腹の切り方を知っている人は手をあげて……二人ですか、では、まず、わたしがお手本を示しますから、よく見ていてください。そのあとで、ひとりずつやってもらいます。切腹といっても、一文字に切る方法、十文字に切る方法、正座して切る方法、立ったままで切腹する方法なぞいろいろとありますが、最初一文字切腹をやってみせます』

唇をきりりと結ぶと、美しい顔をいっそう上気させ、かたわらの木刀を取り上げると、手ぬぐいをきりりと巻きしめ、さか手に取ると、

『刀はこういうぐあいににぎり、このくらいきっ先を出します。あまり浅く切ると死に切れず、生はじをさらしますし、あまり深いと引きまわせなくなって、不覚を取るから、注意してください。とくに女子の場合、脂肪が厚いので、男子より引きまわすのに苦しむことがありますから、覚悟してください。刃はこのあたりにこうかまえて……ひと息に突き立てるのです。突き立てそこねて何度も突くのは、覚悟が悪い証拠だとして物笑いになります。…こうして……むッ』

美貌のほおを染めて突き立てた刃を引きまわす姿態を演ずる彼女に燃えるような視線がそそがれるのでした。

古谷芳江も全身が熱くなるような思いに、彼女の手もとを食い入るように見つめるのでした。

『こうして……このあたりまで……むッ……じゅうぶんに引きまわす……これが一文字。刃をぬいてこう構えて……うッ! こうして突き立て……切りおろすと……これで十文字……』

高ぶる心を現わすかのように、まっかに血がさした顔をあげた彼女のはえぎわに汗がきらきらと輝いているのです。あたりを熱っぽい激しいといえる空気が支配します。

『さあ、では、ひとりずつやってもらいます。きょうは一文字に切る練習をしましょう。では……古谷見習い員……あなたがやってみてください……』

あまりにも激しい美しい切腹に、ほとんど我を忘れて食い入るように見つめていた彼女は、突然、自分の名を呼ばれてはっと我にかえりました。一瞬、ぼう然とした彼女も、次の瞬間に、心の高ぶりとはじらいのあまり全身にかっと血がのぼるのを感じました。

『さあ、前に出て、わたしのやったようにしてみてください』

消えいりそうに『ハイ』と答えた彼女を、全員注視のうちに正座させ、木刀を手渡すと容赦のない声がとびます。

『さあ、刃先に手ぬぐいを巻く……そう……もっときっ先を出して……右手でしっかりと……』





ふるえる手で手ぬぐいを巻きおえた芳江ははじらいと高ぶりのあまり、ほとんど夢中で左下腹に木刀を構えると、力いっぱいたたきつけるように……腹に着衣の上からですが、それでも鈍い痛みがじいーんと全身にひびきわたり、快感といえるまでに、からだをしびれさせるのでした。

『あッ! むッ……!』

力いっぱい腹にあてた木刀をじりじりと引きまわすにつれて、高ぶりのあまり思わず、くちびるをうめきがついて出るのでした。

右わき腹まで引きまわし終え、血をかぶったように上気した顔を上げた芳江に、陽子はニッコリとほほえみかけると、

『大変よろしい、りっぱな切腹でした。さあ、今の古谷見習い員の切り方を手本にして、次…』

半年間の教習期間ほとんど、毎夜くりかえしくりかえし、切腹の作法や切り方が練習されました。毎夜、部屋にかえって消灯するまでの合い間にさえ、切腹の練習をくりかえす者が何人もいたほどだったので、彼女も自分の心の高ぶりを人に知られることなしに公然と皆の前で切腹への激情を吐き出すことができたのでした。








病院に配属がきめられても、切腹に対する激情はさめることを知らず、ひまをぬすんでプレイをつづけたのでした。
しかし外地勤務になると、さすがに慣れないこうした激務がしばらくは彼女の心を切腹から遠ざける事になり、内地を出る時、密かに『こうり』の隅にしまい込んだ懐剣と手慣れた短い木刀は取り出されることもなかったのでした。

しかし、班長に昇格し、個室が与えられ、外地の生活にも慣れ、病院外にも外出しなければならないことが多くなると、外出のさいには必ず懐剣を肌につけ、手なれた木刀をベッドの下に秘め、情熱にまかせてそれを手にする日が多くなっていたのでした。




このようなおりから、あのような不祥事件の犯人が自分の班員の内から出たという自責の念は、それが切腹への情熱と結びつけられて、自決への決心を固めさせたのはきわめて自然だったと言えましよう。




人 体 実 験



司令官から古谷芳江の自決とその希望を聞いた服部軍医はたいへん驚き、どうかしてその企てを止めようとしたのですが、彼女の心があまりにも堅く、どのような説得も無益であると悟ったため、ついに残酷きわまる人体実験の実施を芳江のからだを使って行なうことに決定されたのでした。

 それは、今まで知られている拷問で、最も残酷なものでも及ばないほどでした。

 まず、自決の十分ほど前に、A剤を注射する。それがじゅうぶんに全身にまわったころ、切腹して腸をことごとく体外に抜き出す。次に、生きている腸に針をさし、直接B剤を腸内に注射する。そして正確に一定時間後、生きたままの腸を一気に切断し、これを標本にしてA・B剤のききめを検査する。しかもこれが実験の前半で、腸を断った後も、命を絶つことも気を失うことも許されず、A剤の注射部位に反応が現われるまで苦痛とたたかって、A剤反応の大きさ形状を計ってはじめて命を絶つことが許されるのです。

もちろん、薬剤の効果を測る実験ですからどんなに苦しくても、鎮痛剤や麻酔剤といった、ほかの薬品の使用は許されず、気力で苦痛と戦う以外に方法はないのです。

あまりの残忍さに、司令官は眉をくもらせます。若い娘が切腹するだけでもじゅうぶんに苦痛なのに、腸を引き出し、それを切断するなどということが、はたしてできるものだろうかと考えるのは、当然と言えましょう。

 軍医もこの点を察して、じゅうぶん引きまわし終えたら仰臥して医師の手で腸を引き出し、鋭利なメスで一気に切断して少しでも苦痛を少なくしょうと申し出たのに対して、どんなに苦しくても、いっさいを自分の手で行ないたいと堅く主張する芳江は、一歩もゆずるけはいを見せないのです。

 あまりにも強固な方江の決心におされ、ついに軍医も、司令官も、この実験を彼女自身の手で行なうことを承認したのでした。ただ一つ、彼女の希望として、当日看護婦の制服では引きまわしづらいし、軍人として死を選ぶ以上軍服をつけて行ないたいという申し出に、芳江の心を察した司令官は、軍医に向かって、彼の軍袴、軍長靴、ワイシャツを最後の衣装として出すことを提案したのです。

顔を赤らめて軍医から軍装を受け取った芳江の瞳に激しい何物かがあったのを司令官は見て取ったのでした。

切腹は、3日後の午前10時に、陸軍病院の第三手術室で決行されることになりました。

 3日間の余裕が、彼女へ生への執着をよびおこし、自決への覚悟を鈍らせはしないかと案ずる石田中将の心づかいにもかかわらず、それからの3日は、実験の準備としての各種の計測、測定が時間を惜しんで行なわれ、文字どおり休む間のない様相だったのです。身長、体重といったごくあたりまえの測定からレントゲンを何ヵ所も撮影し、尿の検査、肝臓の検査、血沈、血圧などはてしなく行なわれるのでした。それには、突き立てるさいの刃先の深さを決める皮下脂肪の厚さの測定さえも行なわれたのです。薬効を明らかにするため、固形物の摂取はいっさい禁じられ、腸内残留物を体外に出すために灌腸がくりかえされました。




最後の夜は、いっさいの測定が完了し、あとは静かに明日を迎えることが許されたのです。

身よりのない芳江は、遠縁のおばに遺書をしたためると、身のまわりをかたづけるのです。

かねてから肌身はなさず持っていた懐剣のさやをはらい、その青白く輝く刃先に、つかれたように見いる彼女のひとみに、妖しい輝きがあったのです。ついにこの守り刀で我とわが腹をさしつらぬく明日の様子が、彼女の心をあやしいまでにゆさぶるのでした。

はっと我にかえった芳江は、短刀の目釘(め くぎ)をはずすと、注意深く柄を取りさり、白布につつむと、ベルを鳴らして見習い員を呼ぶと、軍医のもとに届けるように命じたのです。

するべきことがすべてすんだ彼女はベッドの下から手慣れた木刀を取り出すと、最後のプレイにいどむのでした。身にまとっている制服を脱ぎすて、軍医の好意の軍装を素肌の上にきちっとまとうと、長靴をはいて木刀を取り上げるのでした。そのごわごわした感触と男性特有のにおいが彼女の心を妖しいまで高ぶらせたのでした。白い肌をのぞかせて前をくつろげ、今宵かぎりと思うと力がこもり思わずうめきがくちびるを突いて出るのでした。

『うむッ! ああ……切腹……切腹……明日こそ、こころゆくまで、腹、腹かき切って、……ああ……せつない……ああ……』

熱にうかされたように口走りつつ白い下腹にあてた木刀を右にじりじりと引きまわすのでした。

『こうして……明日は……ああ、軍医殿、切腹を……うれしい、こうして……もっと……ああ……』

荒い息づかいが部屋の静けさをやぶり、ほの暗い灯の下で腹に当てた木刀が深いくぼみを見せつつ、右へ動くのを見おろしつつ悩ましげに腰をふるわせて引きまわしつづけるのでした。



美小姓のおもかげ



当日の早朝、とくに彼女のためにわかされた朝湯で全身をくまなく洗い清めた芳江は、最後の身づくろいをととのえるのでした。

上は素肌の上にワイシャツをつけ、半ばエリをたて、両そでをきちっとたくし上げ、下はピッタリと肌に食い込む浅いゴム・パンテイーの上から軍袴をつけ、軍長靴をはき終えると、鏡に向かい顔をととのえます。健康的なはち切れるような若々しさを強調すること──これが芳江のねらいでした。あたかも切腹の場にのぞむ美しい小姓の姿をしのばせたいと考えたのでした。

顔に薄化粧をして、肌の白さをいっそう引きたてると、くちびるに薄く虹をさし、決意を秘めるかのように眉をやや丸いめに引くと長い黒髪をたばねると背におろしたのです。

やがて婦長に伴われて最後の場になる第三手術室に現われた芳江の姿を見た人々は、あまりの美しさに息をのんでしまいました。若若しさが全身からむせかえるように発散し、その薄化粧をほどこした美貌の中に可憐(か れん)さと妖(あや)しい女らしさと、りりしさがただよっているのでした。

手術台を取りつけただけの室内はガランとして、手術灯がタイルの白さをいっそう見せてまばゆいばかりのスポットをあてて、その光芒(こうぼう)の中央に白木の三宝にのせられた短刀が白布の間からきらっと鋭い刃先をのぞかせ、横に大型の四角な手術皿がステンレス特有の冷たい金属光沢をはなっているだけでした。




壁に添って立つ立ち会いの人々が、じっと彼女を見守るなかで、軍医が近づき、彼女のたくし上げた左腕に、A剤の静脈注射を打ちました。ピンク色の液体は音もなく、しずかに彼女の体内に吸い込まれていきます。

軍医と一瞬合わせた彼女の視線の激しさに

『苦しいだろうが……しっかりやってくれたまえ』と思わず声をかけたのです。『ハイ』と、言葉少なく答えた彼女の目に、万感の思いが走ったのを見のがしませんでした。

立ち会いのひとりひとりとにこやかにあいさつをかわし終えると、時間を見はからって司令官がうなずくと、光茫の中央に進み出た古谷芳江の前に立った司令官が、

『陸軍看護婦古谷芳江、不祥事件の責めを負っての自決を許す……』と申し渡したのです。

輝くような美貌を上気させた芳江は、顔をおこすとよく透るさわやかな声で口を開きました。

『陸軍看護婦古谷芳江、ただいまより、不祥事件の責めを負って切腹いたします。なにとぞ、お見届けください。なお、ふつつか者でございますゆえ、苦痛のあまり苦呻いたすことはあるかと存じますが、軍人として、りっぱにしとげ、けっして見苦しいまねをいたさぬ覚悟でございます。今回の自決につきましてお世話になりました司令官穀、軍医殿、皆様のお心は、けっして忘れられません。ではいきます! 天皇陛下万歳!』

きっぱり言い切ると、輝く光茫の下にひざをつくと悪びれる様子もなく、ワイシャツの襟元のボタンに手をかけた。



白い肌を切りさばく



ワイシャツのボタンをゆっくりはずすと肌が白くのぞくのもかまわず、幅広い軍袴のバンドに手をかけ、皮をきしませてゆるめると、下腹いっぱいに押しさげ両手をえりもとにかけると、おしげもなく胸から下腹部までにおよぶ雪白の肌を現わしたのです。形よく豊かに張った胸の盛り上がりには堅い乳首が上向き気味にふるえ、きゅつと引きしまった腰から、再び流れるように広がっている腹部にととのった臍が深いかげりを見せ、むっちりときめ細かに盛り上がる下腹部には、強い光の下に白い肌を通してうすく静脈がすけて見えるほどでした。

女性らしい若々しい体臭がむせかえるように感じられる裸身と、可憐(かれん)なまでに清純な美貌とは釣り合って、その美しさに人々は完全に心をうばわれてしまい、食い入るように彼女の一挙一動を見つめるのでした。

痛いほどの視線を感じつつ芳江は、下腹いっぱいに押しさげたバンドをきつく締め直すと、顔をうつむけ、短刀を取り上げておしいただき、右手にしっかりとにぎりしめたのでした。輝くきっ先は二寸二分──彼女の皮下脂肪の厚さ、腹壁の厚さを計算に入れたもので、それ以上浅いと腹をたち切って腸を引き出すことならず、そうかといってそれ以上深いと腸を傷つけ実験を無にしてしまうおそれがあったからです。──

ひざの上に短刀を構えた芳江は、形のよい長い左指を張りつめた下腹部にあて、肌にかげりを見せつつゆっくりとなでるように押しもみます。下腹部をゆっくり左から右に押しもんだのち、左手を左下腹部にもどし、右手の短刀をぴたりと左下腹部に構え腰をうかせて大きく息を吸いこむと気を計ります。おそろしいまでに張りつめた緊張の一瞬。

『ブツッ!』鈍いせつないひびき。





『うむッー』おし殺しかねたうめき。刃の輝きはことごとく腹中に没し、前へのめりかけた上体をぐっと起こして一呼吸、右手に短刀を押え込み、力いっぱい右へ『ツツ……』歯をくいしばる息づかい。


悩ましげにひそめられた芳江の美しい眉に苦痛がしのばれます。

実験の慎重を期してか、苦痛の激しくなることもかえりみず、わざとゆっくり引き回している様子。

『むッ……ツツ……ツ……むッ!』

早くも、雪白の下腹部に赤黒い傷口がじりじりとのび、鮮血が盛り上がるようにあふれると、腹の曲線を伝ってカーキ色の軍袴を染め、タイルの上に点々と花を散らしはじめます。

『うむッ! うッ……むッ!』

肌を断った短刀は次第に右へ位置をかえていきます。両眼を堅くとじ、短刀をあおるようにじりッ、じりッと引きまわしていくのです。鮮血は白肌に乱れる紅の糸を引き、次第に激しく流れます。

今や、正中線を断った刃は、意志どおり、なおも右へ、血潮をはじいて強光に輝く刃がギラギラとのぞくのです。

『うむッ ッ! ああ、な、なんの、これしき。うむッ!』

次第に高まる苦蒲に、何か口走るのが励みになるのでしよう。みずからを励ましつつ、なおも引き回す手に力をこめるのでした。

『ま、まだ、まだたらぬ! なんのこれしき! ああ……ッ……うむッ! じ、じゅうぶんに、こうして……もっと、くッ、くッ、……ああ、なんの、も、もっと!』

傷口が外側にはじけ、皮下脂肪が房状にはみだして来るのです。血潮をはじくその鮮烈な黄色さ。

前のめりになろうとするからだをささえ、引き回す刃に引かれ、右にねじれる腰を正面にすえようともだえるように悩ましげに波打たせるのでした。

『あ……うむッ! な、なんの……これしき。くッ……くッ……! ま、まだ、まだたらぬ。もっと右へ、もっと……まだ……もっと右へうむ!』

むっちり張った下腹部を一文字に切り開いた短刀は、わき腹に迫っていきます。気合いに似たうめきをほとばしらせつつ、最後の二寸ほどにいどむのです。

『まだ、た、たらぬ……うむッ! もっと、まことの切腹は、こうして!……』

 えぐるように短刀をあおりたてるのでした。

刃は、芳江の意志どおりわき腹に、歯をくいしばってぐっと引きつけ切った刃を一えぐり『うむッ!』と一声、血まみれの短刀を抜き取ったのでした。

真一文字に七寸ほども切り裂かれた下腹部は上下に一寸程もえみ割れ開いた傷口は鮮血と皮下脂肪に色どられ、わなないているのでした。激しいまなざしで傷口を見おろした芳江は、血のけの引いた青白い顔をあげると

『古谷芳江、ただいま、は、腹、真一文字に……しとげました……いざ、腹わたを!』

というや、左手を、開いた傷口の中ほどにさしいれようとしたのです。

『あッ! むッ!』

いかに気丈(きじょう)でも、若い娘です、傷口にさし入れようとした手を苦痛のあまり反射的に引いて身をすくませてしまったのです。

『ああ、ざ、ざんねん、はずかしい……こ、こんどこそ、なんの……こ、こうして、はらわた!』

けなげにみずからを励ますと、荒い息をととのえ、歯をくいしばって覚悟をきめるや、上体を起こすと、左手をずぶっとばかり手首まで腹中にさし込んだのです。

『あッ! うむッ!』苦痛のあまり全体を折り曲げ、全身を苦闘のあまりふるわせるのでした。





『い、いざ! 市谷芳江の、は、はらわたをご、ごらんください』

と一声叫ぶや気丈にも上体を起こすと腹中に没した左手が、ガバッと傷口をおしのけると脂肪にいろどられた淡いピンク色の小腸をにぎりしめたままずるッずるッと引き出しました。立ち会う人々の間から思わず嘆声が上がった。

『うむッ! うむッ! あーッ』

血みどろの小腸は、たたまれたようになって傷口から引き出されます、芳江は気力をしぼって小腸を、ひざの前にすえられたステンレスの手術皿に音をたてて落とし込むのです。

『ふ、古谷芳江、セップク、切腹……腹わたを引きだしました!』

『よくやったぞ古谷君、りっぱな切腹だったぞ、さあ、気をしっかりもって、実験はこれからだ』

励ます軍医の声に荒い息の下でうなずくのでした。




A剤の反応


助手の手で、二本の注射針が、彼女の腸に突き刺され、シリンダーから、濃いミドリ色のB剤が、腸内に流れ込んでいきます。

ストップウォッチがスタートされ、5分20秒後に正確にセットされたのです。

5分後に、この実験の山であり、切腹のクライマックスでもあり、しかもいちばん苦痛の激しい断腸を自分の手で行なわなければならないのです。

荒い息をととのえ、苦痛のうめきを必死に押える芳江のけなげさ。今は、身と腸をつないでいる二本の腸管をわななく左手にしっかとにぎりしめ、右手の短刀の刃を腸にからませ、合い図があり次第、一気に断ち切るかまえで待ちつづけるのです。無情なストップウォッチのひびきが、静まりかえった室内にひびきわたります。

いかに芳江が気丈でもじゅうぶん引き回し終えただけでなく、みずからの手で腸を引き出したのですから、その苦痛はたとえようもないのです。歯をくいしばり、気力と理性で押えかねたように身もだえしつつ、長い五分間に耐えつづけるのでした。押えかねてくちびるからもれるうめき。『うッ!……ツ……あ……うむッ、うむッ!』

 最後の一分の秒よみがはじめられます。

 48、49、50……55、56、57、58、59、5分……4、5、6、7、8、9、10、5分10秒!

 右手の短刀がギラッとひらめき二本の腸を一気に断ち切ったのです。さっと飛び散る鮮血。『アッ!』悲鳴に似た叫びが、くちびるをつきます。『うむッ、くッ、くッ……』激しく全身をふるわせ、激痛をうけとめるのでした。

 ワイシャツの前が大きくはだけ、苦悶に燃え立つ胸の盛り上がり。血みどろの左手でしっかとそれを押えこみ、にぎりしめた芳江はせつないまなざしを空にすえ、四肢をふるわせるのでした。




『せ、せっぷく、く、くるし……なんの!……はらわたを思いのかぎりかき切った……ああ、せつない……ああ、芳江の本懐……はらわたをかき切った!……』

気力にささえられて上体を保っている芳江は、どんなに苦しくても、A剤の反応が現われるまで耐えなければいけないのです。気を失うことも、それまでは許されないのです。

『よくやった、しっかり! しっかり耐えるのだ! 実験の半分は成功した。あとはA剤の反応を見なければならん。苦しいだろうが耐えてくれ!』

『ハッ、ハイッ! あッ!』

苦痛にもだえる芳江にとって、時間の経過は一秒でさえどれほど長いものでしようか。

『ああ、く……くッ、くるしい。なんとしても、芳江は耐えて……切腹を……しとげ……あ!ざ、ざんねん、気、気がくじけそう…ああ……軍、医殿、気が、気が……』

『古谷君、実験のために気つけ薬をやることはできないんだ。かわいそうだが、短刀でももをついてくれ、痛みで気が保てるかもしれない』

『ハ、ハイ!』気をふるいたたせた芳江は、短刀を必死にとり上げると、太ももを目がけ軍袴の上からハッシと突き刺したのです。

『あッ!』気丈にえぐりたてるのです。

『い、いたい! 気がし、しばらくは取りもどせます。あ、あッ……ツ!』

時間はゆっくりとたっていきますが、芳江の左腕にはまだA剤の反応が現われるけはいはないのです。あせりの色が軍医の顔に浮かんで来ます。

『ああ……芳江は、気が、気がくじけそう……もう……あ……耐えて……い、いけない』

何を思ったか芳江はあえぎつつ血みどろのズボンのバンドに手をかけてゆるめると、軍の前を開き押しさげたのです。ぬめぬめと血をはじいているゴム・パンティーを左手でぐいと押え、短刀の刃先を下腹部にあてがうと、もろ手突きに力いっぱい突き立てたのです。『うむッ!』のけぞりながらえぐりたてるのでした。

『お、女のた、たましいを、このとおり……むッ! こうして、うむッ!……もっと!』

この清純な、処女の臓腑を鋭い刃先が容赦なくずぶずぶ貫いていくのです。この苦痛で失心を防ごうというのでしよう。血潮が激しくわき立ち、あふれます。

『ぐっ、ぐえッ』血を吐いて苦悩する芳江の左腕についに赤い班点が現われたと見るや見るまに広がってくのでした。

『やった!成功したぞ古谷君よくやったぞ実験は成功した苦しかっただろう介錯しよう。さあ安らかにいってくれ』

青酸カリの注射筒を取り上げた軍医に首をふってさえぎった芳江は『どうか自分の手で……お許しく、ください』

あえぎ、あえぎ言うや、短刀をさらに深くずぶっと突き込むと、ぐいとえぐったのです。身を堅くしてのけぞったと見るまに鮮血がどっとばかりにほとばしり出ます。

『い、いざ、い、いきます、切腹、切腹、しとげて、本懐、司令官殿……軍医殿、うれしい芳江は身も心も……』そのままくずれるように前にたおれ伏したのでした。

古武士も及ばぬ壮烈な切腹をはたした芳江は、その美貌を血潮の海に沈めたのでした。立ち会う人々も、あまりの壮烈さに、ぼう燃として声も出ないありさまでした。

二日後、広報に『陸軍病院の古谷看護婦は軍務の責めを負って従容として自決した。婦女の身でありながら軍務の責めを身に負う態度こそ軍人のかがみである。よってここに告示し、全軍に通達する』と記載され、真相は秘められたまま終戦をむかえたのでした。






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