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お町の罪



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一、密通いたし候妻      死罪

一、密通の男          死罪

一、主人の妻と密通いたし候もの、
  男は引き廻しの上獄門、女は死罪

一、密夫いたし、実の夫を殺候女、
  引き廻しの上磔

一、実の夫殺候様に勧め候か、又、手引
  いたし殺候男、獄門

                       (御定書百箇条)



数珠つなぎ


 日本橋の街並みに、日暮れが迫っていた。

 往来の両側は黒山のような人だかりだった。

 お町も以前この通りで、お召捕りとなった科人の曳かれて行くのを見物した事があった。その時の縄付きの中に、初々しい娘が一人混じっていた。顔が胸へめり込むほどに俯向いて、ひとしお哀れな風情だった。

 どんな大それた罪を犯したか知れないが浅ましく括られた姿を人目に晒されて可哀想に…と思ったものだ。

 同時に、心のどこかで、両国の見世物小屋をのぞく時のような、爪先立ちをしても見届けたい好奇心が燃えていたものだった。

 それが、今は自分が見物される側となってしまった。

 野次馬たちの視線が、特に自分に向かって注がれているのを、全身に痛いほど感じた。

 群集の喚声は、まるで三千世界の音という音すべてを集めて耳の中へ押し込まれたように聞こえる。

 消え入りたいほどの屈辱だ。

 後ろ手に本縄を打たれてから、ずいぶんたっている。両腕は肩まで全く知覚を失っていた。

 背中へ廻された10本の指を、甲斐のない事とは知りながら、もう一度屈伸させてみた。先刻よりも動かなくなっているのがわかった。汗が乳房の間を流れて落ちた。

 不意に、眼の前へ人影が表われた。

 顔を上げたお町は、全身の血の気が、一そう退いて行くのを覚えた。

『お町さん、いい恰好におなりだねえ。大向こうから声が掛かりそうじゃないか』

『あ、お常さん………』

 お町は唇を血のにじむほどに噛んだ。この身が縛られていないものならば、飛びかかって、相手の咽喉笛を喰い切ってやりたい思いがした。お常は、夫弥七の妾だった。

『ええ、女、邪魔をするな!』 護送の同心が十手の先で、お常を追おうとした。

『恐れ入ります。でも旦那、あたしゃこの縄付きに一言云ってやりたいことがござんす』

『ならぬ』 だが、お常はたじろぎも見せず、勝誇った口調で、お町に浴びせかけた。

『和泉屋の身代、この妾が、ちゃあんと預かったんだ。後のことは心配しないでいいのさ。安心して磔柱を背負うがいい!』

 お町は、その声の方を振り返ろうとしたが、

『ええい、女、キリキリ歩め!』 ピシリ!と十手で肩先を打ち据えられ、邪慳に縄尻を引かれた。

 お町は、もう逆らわない。元のようにうなだれた、曳かれるにまかせた。

 (和泉屋の御新造お町と呼ばれる女は、もうこの世から消えてしまった。残るのは、北の御奉行様のお懸かり。密通の上夫殺しの重罪人、まち、当年23才、と云う地獄に落ちた女なのだ)

 と、自分に云い聞かせた。

『やれやれ、早く御牢に着かないかねえ。モッソウ飯もゾッとしないが、猿廻しの猿みたいに、お縄になって見世物にされるのは、真っ平なんだ!』

 お町の横に並んだ女、巾着切りのお鱗が、吐き出すように云った。

『口を利く事は相ならん!神妙に歩め』

『縄抜けもしないでおとなしく縛られているんだ、これ以上の神妙はござんすまいよ』

『黙れ』

『黙りますともさ。だから、妾の肩を入れさして下さいな。憚りながら、このお鱗(はばか)姐さんの玉の肌は、木戸銭も取らずに拝ませるほど安っぽくはござんせんのさ』 

 巾着切りのお鱗は反抗的に身を揉んだ。

 先刻、大番屋留置所でこの女が縛られる時の様子を、お町も見ていた

 縄抜けの前歴があるというので、荷物を縛るように緊縛されたのだ。女は役人をからかうように暴れた。結局、縛り上げられた時は、右肩から豊満な胸乳の辺りまで肌が露わになったままだった。

 したたかな、縄の味や牢の味を知り尽くしているような感じの女賊だが、お町には、その捨て鉢な姿の中に見える諦め切った女の明るさみたいなものが羨ましかった。

 しかし、そのお鱗でさえさすがに羞恥の心が涌いたのだろうか、肩をしかめ、役人に訴えたのだ。

 役人は唇の端に冷笑を浮かべ、女の肌に露骨な視線を投げたまま、黙殺した。

 もう伝馬町の牢屋敷が近かった。



牢 入 り


『牢入りい!』

 片眼の非人が表門の外で叫んだ。

 科人達は牢庭に曳き入れられ、火之番所の前の砂利の上へ、引き据えられた。やっと、野次馬の眼から隔絶された。と吐息をついた瞬間、お町は俄かに目まいがして、崩れるように砂利の上へ倒れた。

 図太く立膝に座っていたお鱗が、眼を光らせ、つま先でお町の腰を蹴った。

『これからお改めがあるんだよ、寝るにはまだ早いやね。しゃんとおしよ!』張番の一人が気づいて、六尺棒の先でお町の肩を強く突いた。

 お町は低く呻いて眼を開けた。

『女、ここをどこと心得る。立ませい!』

 縄目に棒をからませて、グイと引き起こした。お町の上体は無惨に捻じれた。

『御覧な。甘ったれの通る場所じゃないよ』

『黙れ!』 張番は威丈だかになって、お鱗を小突いた。

『おや、妾を、お忘れかい。ちょいと!小判鮫の久六さん、妾や、お前さんから折檻を受けるような義理はないはずだがね』

 久六と呼ばれた張番は、女がお鱗であるのを認めると、俄かに狼狽した。

 2年前、お鱗が入牢した時、少なからず賄賂を取っているのだ。

『またドジを踏んで縛られましたのさ。お上のお慈悲とやらで、妾の肌を入れておくれな………』

 顎で使うようなものだった。久六はお鱗の衿を直しながら、ギゴチない口調で云った。

『間もなくお改めがある。見苦しい態を見せてはならんぞ!』

 お鱗は鼻の先で、せせら笑った。

 玄関の内から、色の黒い精悍そうな感じの鎰番が現(かぎ)れ、火之番所へ入った。

 護送の役人から人別書上写しを受け取り、面倒そうに一人ずつ照らし合わせた。

 やがてお町の番が廻って来た。

『其方儀、誰殿の御懸りにて、生国はどこだ。名は何と申す。年は何才だ』

『北の御前様のおかかりでございます。浅草御蔵前片町、………和泉屋弥七の女房まちと申します。23才に相成ります』

 うむ、罪状は、密通の上夫を殺めた、それに相違ないか』

『………濡れ衣でございます』

 思わず、またしてもこの言葉が出た。今まで、この云い開きをする為にどれほど努力をしたかわからない。だが、この言葉に帰って来るのは、自身番でも、大番屋でも、痛め吟味ばかりだった。いっそ、御上の云う神妙さを示し、罪に服し、一日も早くお仕置を受けた方が楽かも知れない………とお町は思い始めていた。

『知らぬ存ぜぬはお白州で申し上げろ。世迷言を聞く場じゃあねえのだ』

 鎰番の言葉つきが、急に伝法になった。

 そして、護送の役人に向かい、

『風間拾蔵、この科人ども確かに受取り申した』 と挨拶した。

 次に、お鱗の人別改めが始まった。

 お町はボンヤリと、そのやりとりを耳にしていた。

 苦痛から逃避したかった。無実の刑死でそれをするか、拷問を忍んでも身のあかしを立てようか………その決心がつかない。

空に星が光り始め、夏の夜が訪れた。蚊が首筋の血を吸っているが、それを追い払う自由がなかった…。

 どれほどたったのか、お町は縄尻を引かれて我に返った。

『ええ、世話の焼ける阿魔だ、立ちませい』

 パシッパシッ!と両頬を打たれた。小判鮫の久六、陰惨な眼で睨んでいた。

 お町はヨロヨロと立ち上がった。白い頬には指の跡が数条、赤く浮き出ていた。

 嫁入り前までの20年近くは、折檻を受けることなどなかった肌だが、今では過酷に責めつけられる感覚に、体が馴れをみせ始めていた。

 牢は西と東に建っていた。 

 女牢は西に側にある。

 お町とお鱗は西の牢へ曳き立てられた。

 外鞘の中へ突き入れられる。異臭が鼻を打った。何とも云えない、胸がむかつくような悪臭だ。濁った、空気がよどんでいるのだ。

 2間牢、大牢の前を通る時、獣の唸り声のような音が起こった。

『お、滅法いい女じゃねえか!畜生、それも二人よ。どうでえ、あの腰つき。おう、姐さん、こっちを向きねえよう。ちえーっ、たまらねえなあ』

 倶利迦羅紋々(くりからもんもん)の刺青を全身にした男が、牢格子にしがみつき、奇声を上げた。

『ふん、シャモのくせに何を吐かしやがるんだい!』

 お鱗が云い返すと、挑発されて、牢内の熱気が渦を巻いたように涌き上がった。女に飢えきっており、今後も肉欲を絶たれたままの運命のある男囚達には、牢役人の制止など何の効き目もなかった。

 女牢の前で、縄尻を停められた。鎰番は、

『女部屋!』 と呼んだ。濁った声がそれに応えた。

『へえい』

『入牢がある。巾着切り、深川無宿りん、密通の上実夫殺し、浅草御蔵前片町、まち、の二人だ』

『へい、おありがとうございます』

 お町はやっと縄目を解かれた。腕は動かない。腕中を針が走り廻るような感覚が起こった。

お町は呻いた極度にしびれた腕はこの上もなく苦しかった。お鱗も互いの掌で二の腕を押さえもみほぐしてた。

 鎰番が、二人に申し聞かせた。

『其の方共ツル等と申して御牢内へ金子など持参する事は相ならんぞ!もし持入る事が後日知れたならば重きお咎めを受けるぞ、所持するなら、この場において差し出せ』お鱗は小腰をかがめ、馴れた調子で答えた。

『さような物は持ちませぬ。どうか御存分にお改め下さいまし』

 二人の女非人(乞食)が来て、改めが始まった。

 お町を担当したのは、50余りの底意地の悪そうな眼つきをした女非人だった。

『お前さん、入墨者じゃないんだね、じゃあ、云われた通りにおしよ。帯をお取り』

 入牢の前には全裸にして改められるのが定法だが、お町はもとよりそんな予備知識を持たない、それに、手がまだ動かなかった。

『この女、金つんぼかい………

 女非人の手が伸びて、帯が解かれた。

着物、長襦袢と無表情に剥ぎ取られ、お町は悲痛に呻いた掌で両乳を隠そうとしたが手は云う事を聞かない。

『何を恥ずかしがるこたあないやね、人間、産まれた時とお湯に入るときは裸だ』

 云いながら非人は、お町の湯もじを剥いだ。

 思わずこごみかけたお町の背中に、張番の六尺棒が鳴いた。

 羞恥の許されない世界だった。

『素直におしよ。下手にあがけば痛い目に遇うだけさね。さあ、口をお開け』

 お町は観念して、血の気のない唇を開いた。

『口はもういいよ。女の入牢にはお腰が許されるんだがね………』

お町は湯もじをまとおうとした。お鱗の方は既に湯もじを着けているのだ。しかし女非人は首をゆっくり振った。

『その前に調べる所があるよ。二分銀ならどこへでも隠せるからねえ………』

 意味を悟って、お町は悲た鳴を上げ。

 思いもよらぬ屈辱だった。

『も、もう、お許し下さい。申します。白状致します。お金は着物の衿に縫い込んであります!お許し……』

女非人のおぞましい手を振り切って、そう叫んだ。お町は湯もじを前にあてその場にしゃがみ込んでしまった。

『馬鹿な女だねえ』 お鱗が呟いた。

 ツルと称して金銀を牢内に持ち込む事は、いわば公然の秘密でありお改めは作法だけ型通りに行われるに過ぎないことを、お町は知らなかった。

 飯炊き女のお兼が、お召捕となる際に手早く縫い込んでくれたのだが、結果はかえって悪かった。

 ツルを役人に吐き出した新入りは、牢内で迫害されるのである。

 お町は元結いを切られ、髪をほぐして改められた。美事な黒髪が白い肩に流れた。

 改めが済んだ。

牢の留め口が開けられ二人の女囚は身の廻りの物を胸に抱え、ザンバラ髪のまま、牢内へ追い込まれた。

 内へ入った途端、お町は二人の女囚から烈しく尻を撲られた。初犯であり、ツルを吐いてしまった事への憎しみも加わって、牢内作法のキメ板による打擲は熾烈をきわめた。

 お町は真っ暗闇の中で、押し潰されたような悲鳴を上げ、突伏してしまった。

 お鱗は前科のある入墨者なので、定法によりキメ板を免れた。

打擲の後、お町は細引きのようなもので後ろ手に縛り上げられ、立たされたまま、首筋と足首を牢格子に括りつけられた。 

『おしゃべりは、明日の朝にしようかね。暗くちゃ話が見えねえよ。おう、新入り、娑婆から持ってきた血を御牢内の蚊に、鱈腹ふるまっておやりよ』

 濁った声がものうげに流れ、牢内が静まり返った。

 お町を縛った女囚達は、暗くても眼が見えるらしかった。あっと云う間も与えず手際よく牢格子に固定したものである。

 お町の豊胸は、汗と泪で濡れた。

 蚊が群がってお町の裸身を襲った。

 かゆい。縛られた手首が痛い。苦しい。

 お町は舌を噛み切って死ぬことを考えた。

 微かに自由があるのは腰だけだった。



雌   獣


 朝が近づいた。

 お町は発狂しない自分が恨めしかった。

 心身の言語に絶する苦痛から逃れる手段としての発狂は、人間の生理が持つ自衛本能の一つである。

 猿若町で見た芝居の、恋に破れた女の物狂いが羨ましいと思うのだった。

 牢内の起床は早い。寅の刻七つ時(午前四時)には男牢の三番役がはね起きて、口上をかたる。

『えーい、詰めろ詰めろ羽目通り、詰めろ詰めろ役人衆、詰めの御番衆、つめ洗水をぶち込んではならんぞやい。詰めろ羽目通り、五器口前の御牢人さん方、上座の牢人さん方、下座の牢人衆、助番座れ座れ、目を覚ましてくらりょうぞや。詰めろ詰めろ総役人衆、お戸前の鍵も、ちんやからりと鳴っては成らぬぞや。詰めろ詰めろ羽目通り、つまりました、詰まりました、夜が明けたあ』

 意味のよく通らぬ文句をしきりと重複させて、東西の大牢(交代制で二間牢の者も叫ぶ)が一斉に吠え立てると、囚人達はそれに呼応し『ええいー』と叫ぶのである。

 これをトキの声と称し、牢屋敷外にも響き渡り、辺り一帯の朝の睡りを破るのであった。

 七つ半(午前五時)になると牢役人の見廻りがある。牢名主は役人に挨拶する。

『御無湯も行届きまして、おありがとうござります』

 囚人達は『えーい!』と呼応する。また、

『かしき留りましたァ』『えーい!』という声も上がる。見廻りの役人は、お町の哀れな姿を眺めても、当然の事として見過ごした。

 お町は、うつつの中でトキの声を聞いた。

 頭の中に泥を詰められたような混濁があった。白々と明けそめて来た頃、牢内の囚女達が見たお町の姿は、邪神に供せられた力尽きた犠牲を思わせた。

 黒髪を口の端に噛み、ガックリとうなだれている。首筋、手首、足首から血がにじんでいた。

 牢名主は30過ぎの大年増で、眼に険が漂ってはいるが、粧えば男をたらし込む女郎蜘蛛のような美貌かも知れない女だった。

 通り名を滝夜叉お龍と云い、女だてらに押し込み強盗を働いた上、人をあやめたしたたか者だった。

 そのお龍が、目で合図すると、三番役の女囚がうなずいて、お町の首と足の桎梏を解いた。

 後ろでの縛めはそのままに、お町はお龍の前に引き据えられた。

 三番役,百足虫のお紋は、キメ板を手にして、お町の髪を掴み、頭を上げさせた。

『上座の牢人衆、まだモッソウも中下膳もロクにゃ引けますめえ。ゆんべのお客にお預けの、おしゃべりを聞かせる事にいたしやしょう………』

 お町は、また、何か新しい責苦が始まるのを知り、絶望的に眼を閉じた。 

『これ、やい!娑婆から失せやがった大まごつきめ、はっつけめ!そっ首を下げやがれ!御牢内はお名主様、御隠居様、お角役様だぞ。えい、恐れ入って御挨拶申上げろやい!』

 キメ板が膝に振り下ろされた。

『よ、よろしくお引き廻し下さりませ』

『やいやい、まだ音を上げるには早えわい。うぬがような大まごつきは枕探しもし得めえ、火もつけ得めえ。割裂の松明もロクにや振れめえ。やい、何をして失せやがった!すぐな杉の木、曲がった松木、いやな風にも靡かんせと、お役所で申す通り、有体に申上げろ!』

『………濡れ衣を着せられて、縛られた者でございます。どうか、お慈悲を』

『しゃあしゃあとほざくかや、この女。痛め吟味はお白州ばかりではねえぞえ、キリキリ白状に及べ!』

 今度は背中を打ち据えられた。お町の指が、虚空をかきむしるように悶えた。

『お待ちな。どんな濡れ衣か、その模様を喋らせようじゃないか間男をした上、亭主を殺めたとか云ったが濡れ場に件から語って貰おうかい縛られてちゃあ仕方話もし得めえから解いておやり』、お紋は細引きを手荒く解いた。


『やい、ツルを吐きやがって、お名主さまへのお土産がわりの色噺しで御勘弁下さろうというありがたいお言葉だ。お情けを神妙にお受けし、精々身を入れて語りやがれ!』

牢内には25、6人の女囚がいた。同情の眼は皆無のようだった。誰もが、お待ちの話を待ち受けて一種異様な期待に眼を光らせている。男に飢えきった女囚達の視線は、娑婆の色香を運んで来た美しい獲物に向かって針のように集中した。

ほとんどの女囚が、汚れた肌をあらわにして、汗止めの手拭いを肩に貼り付かせていた。

牢名主のお龍は畳一枚にゆったりと座り、お紋ほか役付きの古顔達は一畳に2,3人。役を持たない女達は、一畳に5,6人も詰まっていた。牢内は一種の自治制であり、牢名主ほか主だった囚人達の権限は絶対に近い支配力を持っており、牢役人達もその横暴を黙認している。

お待ちと一緒に曳かれて来たお鱗は牢法の心得ある入墨者でもありツルの額も多かったと見えて支配する側の立場に属し、悠然と寛いでいた。冷笑を浮かべたその顔は、救いを求めるべき相手ではなかった。





(堕ちておしまい!死んでおしまい!楽になるよ。地獄は亡者の住む処だもの、人間の皮は邪魔になるばかりじゃないか。雌の獣として、のたうち廻るがいい!)

『やい、新入り。何をメソメソしてるんだい!お縄が恋しいかえ、キメ板が欲しいかえ』

『も、申します。もうお仕置はお許し下さい。骨身にしみました。………わたくしは、まちと申し、23才になります。和泉屋という呉服問屋の女房でした』

『亭主はいくつだえ?』

『はい、43才でございました』

『ふん、虫も殺さぬような、しおらしい顔をして、お前は、めかけ上がりだね?』

『いいえ、19の時に、嫁がされました』

『おや、何だか不服そうな口ぶりじゃないか。情人の若いのでもあったのかい?』

『いいえ………お金で縛られた人形のようにして、嫁となったのです』

『初めての男が、その亭主かえ?』 お町は頬を染め、うなずいた。

 聞き手の女達は、息を呑んでお町を見守った。淫靡なあやしい空気が牢内に充満した。

お鱗は、むき出しになった乳房の辺りをもんでいた。昨日の縄の跡をいたわる仕草とばかり云えないものだった。

『………夫弥七は、わたくしの前に三人もの女房を取り替えた男でございました』

『ふん、夜の仕込みぶりは、さぞ達者だったろうさ』

『わたくしも、去年の春に暇を出されそうになりました。みごもることがなかったからでございます』

『その狒々おやじにゃあ餓鬼がないのかえ』

『はい。身代の後継ぎがありません………』

『道楽のむくいでどこかを患っていやがったんだろう』

『わたくしの情が薄いからだと、申し、夜ごと責め抜かれました………』

女囚達は生唾を飲みこみ、聞き耳を立てた。



お  白  州


『………その折の夫弥七が折檻の次第、有態に申してみよ』

 呉服橋門内の北町奉行所、この月の月番は石川土佐守であった。

 お白州に引き据えられたお町は、牢屋敷より掛け出す定法の印縄、紺色の縄を本縄に打たれた姿だった。

 入牢以来三度目の吟味が行われている。

 お町はやつれたが、その容色はかえって凄艶の趣を増したようだった。

 お町は身の証を立てる心だけは捨てなかった。真実の立証はむずかしかったが、偽りに白状で極悪人として刑場へ曳かれることは耐えがたかった。かなわぬまでも申し開きをしてみよう、と心に決めたのである。

『…夫弥七は責道具を持っておりました。見た事も聞いた事もない様な恐ろしい仕掛けの物がございました』

 情が足らぬには、隠し男が居る故だろうと申し、次々と責め具に掛け、虐なみ続けるのでございます。南蛮渡りの手枷足枷。皮でできた乳責めの帯、竹の猿ぐつわ。出入りの棟梁にあつらえさせた木馬。蛇の皮の鞭…』

『折檻に掛けられ、怨みに思うたであろうな』

 お町は烈しく否定した。奉行の誘導は必ずそこを辿って行くのだ。

 だが、お町は弥七を憎んだことはなかった。血迷ったような責め折檻の後、狂おしいまでの愛撫を受けるのが常だった。弥七によって女にされ、成熟したお町の身体は、妖しくも酔い痴れ、呻きの裡に開花するのだった。

 だが、それをお白州で口にすることは、さすがに女の羞恥が許さない。お町は云い廻しに途惑うのだった。

『………責め折檻も、弥七の情けのうちで………ございました。みごもらぬことが、ただただ哀しゅうございました。わたくしと弥七は、地獄の責めを枷にして、固く結ばれていたのでございます。弥七は子のない淋しさを紛らわせるために、わたくしを責め、焦って………』

『ええ、申すな!天の下は海山川、木の葉、水の底までも心のままに致し、ものみなすべて見透す、それがし奉行の眼をたばかり得ると思うか!其の方、かねてより情を通じいたる、和泉屋手代幸吉と謀議糾合なしたる上、身代を我がものにせんと企て、主人弥七に毒を盛ったに相違ないわ!』

 石川土佐守は、自信ありげにきめつけ、鋭い眼光でお町を睨み据えた。

『滅相な、………御前様、手代幸吉は、主人弥七の云いつけで、わたくしを、………犯したものにございます。すべては弥七の心より出たこと、何をもちまして毒など………』

『黙りおろう!手代幸吉儀、一切を白状に及んでおるぞ。もはや逃れぬ所と覚悟いたし、潔く罪に服せい!』

 愕然とした。幸吉が何を白状したというのだろうか。

『お、お願いでございます。幸吉をお呼出し下さいまし!何かの間違いでございます!』

『控えおろう!幸吉儀、当奉行所において拷問仰せつかり、一切を白状に及びたる後、すぐに絶命致した。よって定法に従い、塩詰めの死骸を、市中引廻しの上獄門となした。こりゃ、女。其の方、不義者ながら相手の男に操を立つる心あらば、いさぎよく裁きに服し、仕置を受け、跡を追おうとは思わぬか』

 眼の前が真っ暗になる思いだった。

 その上、さらにお町にとって不利なことが起こった。数寄屋町の医師宗順という男が毒薬についての証言を行ったのである。

 見も知らぬ医者だった。明らかにこれは陥穿だった。

『はい、いかにも、鼠取りの薬を調合致しました。それに相違ございません。何分にも和泉屋のお内儀のこと故、万が一にも悪用など………はい、全く以って、露疑いも持ちませず、気づかぬ事を致しました。怖ろしいことでございます』

 40前後の、男盛りの落着き示して、恐れげもなく偽証を述べるのであった。

 お常の奸策に違いない。

 お町は狂乱した。お常、宗順、幸吉を呪い、必死に無実を訴えた。

もはや慎みも控え目な云い廻しも無用であった。悪魔の黒い手が若い命を地獄へ追い落とそうとしてるのだ。

 だが、それによって得たものは、恐ろしい拷問の責苦だけだった。

 お町の美貌には、呪詛する凄鬼の面影が加わった。

 お町は不思議な力を得たもののように、拷問によく耐えた。

 笞打ちは、肌を裂き、肉を割った。

石抱きでは血の泡を口と鼻から噴いた。すんなりと形のよかった白い足は見る影もなく砕け、柘榴と化した。

 海老責めには骨が軋み、眼からは血がにじみ出た。夫の弥七からもこれほどまでに無慚な縛られ方は受けた事がなかった。

 釣責めには、乳房が潰れ、手首の骨が折れかかった。

 失神して牢に送り返され、しばらく日がたって気力が回復しかけると、またもや拷問にかけられる。知らぬ存ぜぬ、と云い通しては悶絶し、牢に送り返される。数日後にまた喚び出され………という繰り返しが幾度も行われた。お町の悲鳴と呻吟の声は、拷問土蔵の陰惨な壁にしみついたもののようであった。

 伝馬町牢屋敷には、囚人を責める場所が二箇所ある。

屋敷のちょうど中央部に当たる場所には穿鑿所と呼ばれる一棟がある。石抱きの柱が3本と1枚13貫の伊豆石が、その柱の前に積み重ねられていた。ここでは笞打ちと石抱きが行われ、この三種を『牢問い』と称する。

 牢問いは、一時に2,3人の者が責められ、残る2,3人は縛られたまま、その有様を目撃させられる。見ている者の方が、あまりの物凄さに恐怖して白状を申し立てる琴も少なくなかった。

 お町が責められるのを見て、白状に及んだ囚人が、3回の間に4人も出た。

 石抱きにかけられても白状せぬ者は、大牢の後ろにある拷問土蔵で海老責めと釣責めを行われる。この二種を『拷問』と称し、重罪の者だけがこの方法で責められるのである。女は、痛め吟味には強いものだ、と云われるが、それをお町ほど明らかに立証した者はいない。奉行も、与力も、打ち役も書き役も、牢屋下男、非人までが、半ば驚嘆し、そう感じたのであった。


モッコウ送り


 今日で何度目のお白州になるのか、お町の頭ではもうわからなかった。

 意識は朦朧としていた。

 非人の担ぐモッコウに乗せられ、伝馬町の牢へ帰る道中の屈辱も、もはや薄れてしまっている。

 重罪の科人は、後ろ手に縛られ、足には両ホダを掛けられてモッコウの乗る。ホダとは足枷のことである。

 初めてのお呼び出しの時、お町はわが姿の浅ましさに泪を流した。人間の扱いではなかった。担ぎ手の非人に哀願し、ホダを囚衣の裾で隠して貰った。

 だが、羞恥する心をむしり取られた今のお町は、うつろな表情で、括り猿のように揺られて行く。

 担ぎ手の、二人の非人は、こんな会話を交わしながら伝馬町へ向かっていた。

『おう、先棒』

『何でえ、房州』

『この別嬪、随分と軽くなったのう』

『全くよ。ああ責められちゃあ体がもつめえ。ふるいつきてえほどにいい女だったが、もってえねえ事をしやがるぜ』

『大きな声じゃあ云えねえが、お役人衆は愉しんでいなさるんじゃあねえかのう』

『違えねえ!』

 護送の役人が、道筋の中途で、用事を思い出し、奉行所へ引返したのを幸いに、二人の非人は、お町の事件について噂を喋り始めた。

『何でもよ、この女の亭主って野郎は悪い病えがあったてえ事だ。手前の女房を責め抜くのがくせだったとよ…』

『御役人衆と同じようなものだべえな』

『それよ。……挙句の果てにゃあ、女を裸にむいて、ふん縛ってよう。土蔵へ閉じ込めようってえ騒ぎだ。ところが、それだけじゃあまだ収まらねえ。手代の幸吉って野郎に、にぎり飯と水を持って行かせたと思いねえ……』

『それからどうしただかね?』

『野郎が土蔵へ入った途端だ、亭主が外から鍵を掛けたもんだ。閉め込まれた野郎は驚いたあな。………なあ、お内儀さん、お前、そう云い張ったっけなあ』

 二人の非人は傍若無人に話を続け、調子に乗って、モッコウの上のお町にまで声を掛けたが、お町は思考の働きが麻痺した如く、弱い視線を微かに動かすのみだった。

『どういうつもりか、亭主野郎は妾のお常という女を呼び寄せた。その女に酌をさせ、グビリグビリと飲みながら、蔵の内の様子をこっそりと見ていやがったてえこった』

『お宝の唸ってる旦那衆ちゅうもんは、随分とまがまがしい遊びをなさるもんだのう』

『おうさ。そういう奴らが本当の非人で、俺っちは神さまみてえなもんさな。もっとも亭主野郎は何の因果か子供の造れねえ性だてえこった。間違い始まったなあそのためだとよ。ところで、閉じ込められた野郎の事だが、とにかく女の縄を全部解いたが、手首に手枷がかけてあって、どうしてもそれがはずれねえ。野郎は、一日、二日と日がたつうちに脂汗を浮かべ始めたとよ。亭主の方は灰色の面になり眼が血走って来やがった。女は生きた心地がしなかった、と云わあ。人身御供だあな。無理もねえ奴がいま一人蔵の中に居た。眼の前に豪勢な食物を突きつけられ、好きなように食えと云われたようなもんだ。それでとうとう二日目の夜ふけにむさぼるように食い荒らした…』

 先棒の非人は、話の効果を確かめるように振り返って、相棒の表情を眺めた。

 鈍重そうな性質の相棒も、さすがに舌が乾くほどの興奮を示していた。

『だがのう………他の奉公人は黙って見物していただかね?』

『それがおめえ、狙ってかどうかはわからねえが薮入りを中に挟んでの出来事でな。人目にゃあ立たなかったというこった』

 後方から、役人が小走りに駆けて来て、モッコウに追いついたので二人の非人は口をつぐんだ。

 ………事件の夜、お町は縛られたまま、幸吉に犯された。一度そうなると、幸吉の若さは自棄も加わって執拗な情熱を見せた。

 そんな時、突然、弥七とお常が踏み込んで来て、有無を云わさず幸吉を高手小手に縛り上げた。お町と幸吉の二人は、乱れた姿のまま、身悶えした。

『お町さん、とうとう恐ろしい事をしでかしちまったねえ』

 そういうお常は、眼だけが笑っていた。

 弥七は、怒りの為か、嫉妬でか、小刻みに身をふるわせていた。

『旦那もこれで、お町さんを責めるのに理窟が出来たというものさ』 とお常は続けた。

 お町は、世の中が狂い始めたのか、とさえ思った。

 羞かしい。そして、わからない。また、口惜しい。自分が何を云いどうすればいいのか見当もつかなかった。

 不意に、弥七の体が、ぐらりと大きく揺れ、呻きながら倒れた。手足の震えが強くなり、死相が現れた。

 すぐに息が絶えた。

 お常は、大騒ぎを始めた。

 岡っ引が飛んで来た。

『お町さん、お前は何という恐ろしいお人だ。旦那の酒樽へ毒を仕込んだね!』

 お常の申し立ては、よく計算された巧妙なものだった。強引に夫殺しの姦婦に仕立てられてしまった。

 お町は必死になって事実を訴えた。しかし、お常は、密通の現場を取り押さえたのだと云い張った。お町に手枷をかけ、幸吉を縛った直後に、毒死したのだ、と、まことしやかに述べた。証人がない。お町の姿は絶対に不利だった。幸吉と通じたのも、結果を云うなら事実だ。姦通の罪だけでも、極刑に価する。殺人の容疑は、岡っ引にとってはどうでもいい事だった。曳き立てて、詮議をして貰えばわかる事だ、と彼は云った。

 お町は牢に入り、医師宗順の偽証によって極悪姦婦の烙印を捺された。

 すでに、どこにも出口のない、地獄の袋小路へ追い込まれていた。

 責め殺される日の方が早いか、奇蹟の起こる日の方が早いか?その二つに一つのように思えた。しかし、この時代の刑法には、いま一つの方法が定められていた。

 それは『察斗詰』に落とす手段である………。



赤  猫


 三日後、奉行所へ送られたお町は、察斗詰を受けた。

 察は調べるの意、斗は計るの意、詰は決審の意である。

 すなわち『察斗詰』とは、あくまでも白状せぬ者に対する強引な刑の宣告の事であり、証拠あってなお拷問に屈せぬ者を、老中の裁許により、処断する制度であった。

 お町は本縄で縛られたまま、爪判、すなわち拇印を取られた。

 すべてが終わりであった。処刑は明日にも行われるであろう。

 両ホダを嵌められ、モッコウに乗せられ、伝馬町の牢へ帰る間、、お町は魂を失った者のように、茫然として、瞬きを少しもせず、その視線は力なく虚空を漂っていた。

 この日、宝暦6年11月23日の夜、江戸に大火が起こった。

 牢内では、火事を『赤猫』と呼ぶ。

 附近に火の手が上がると、囚人達は天恵のように悦び、大火災へと発展する事を祈った。

 明暦三年正月の大火の時に、牢奉行石出帯刀が牢の戸を開いて囚人達を解き放し、命を救って以来大火の際の解き放しは常識となった。一まず回向院の境内へ避難し、三日以内に浅草の溜まり(非人頭、車善七の支配で、病囚を収容する小屋)へ訴え出れば、減刑されるきまりであった。

 そのまま逃亡した者は、小泥棒でも捕らえ次第死罪となるので、おおかたの囚人は神妙に名乗って出たものである。文献『牢獄秘録』には、

一、出火の節、牢内の科人、皆々勝手次第に逃がし候由申伝ふ事ありといえ共、是は大昔の事也。当時は入墨百敲位にて軽き科人は火の節勝手に立退かせ消火の後帰牢の者は、其の罪一段軽く相成候。如何様なる近火にても遠島死罪重科の者は矢張本縄に懸け、モッコウにのせ乞食にかつがせいだす事なり。(下略)

 とある………。

 火はやがて牢屋敷に及ぶと思われた。

 牢奉行石出帯刀(この名は世襲である)は、解き放しを決意した。

 お町は、張番から手早く本縄を打たれ、モッコウで担ぎ出された。

 火の手は、すぐ近くに迫り、日本橋の通りは大混乱を呈していた。

 二人の非人はモッコウを放り出し、

『こうなっちゃあ仕方がねえ、勝手に逃げろ』 と云った。

『縄を解いてください』 弱い声でお町は訴えたが、非人はすでに逃げ去っていた。 

 お町は必死に起き上がり、走って行く人々に哀願した。

『どなたか、この縄を解いてください。後生ですから解いて下さい!』

 だが、取り合う者はいなかった。

 横合いから飛び出した一人が、烈しくお町に突き当って行き、お町は一たまりもなく倒れてしまった。

 数人が、その上を踏んで行った。

『おっと!勘弁しなよ』

 勇み肌の男が、お町の体につまずいて詫びを云いながら、引き起こそうとした。

『危ねえやな、早くおきなせえ』

 と云う男の手が、縄目に触れて、ハッとした。

『何だ、おめえ、伝馬町の縄付きかい』

『お願いです、解いて!』

『よし来た、むごい仕打ちだなあ、縛ったままで逃がすたあ』

 男は、要領よく縛めを解き放った。

 空の赤さが一際濃くなり、お町の顔を照らした。男は、のぞき込んで、おどろいた。

『あ、和泉屋の御新ンさんじゃあござんせんか!あっしですよ。銀次でさあ』

 男は、和泉屋出入りの植木職人であった。

 『しっかりなせえ。さ、肩へ掴まりなせえ』

 男は、お町を背負って、小走り始めた。

『えれえ目にお遭いなすった。お役人のお目違えだろうって、かかあといつもそう云っておりやすが………』

『ありがとう。一人でも、そう云ってくれる人があるなら、………嬉しい』

『何をお云いだ。天道様は無駄に光っちゃあいませんぜ。濡れ衣の晴れる日が、きっと来まさあ………畜生め、やけに燃えやがる』

『わたしは、もう駄目、明日にも、お仕置になります………』

『な、何ですってえ?』

 銀次は、思わず歩みを止めた。

『お願い、家へ連れて行ってください』

『そいつあいけねえ。この風向きだと間もなく火がかかりそうですぜ』

『家で死にたい………』

 銀次は、黙りこくった。そして、急に、足を早めた。その足は、浅草蔵前に向かっていた。

『恩にきます………』

 お町は、男の背で泪ぐんだ。幾月ぶりかで泣く人の世の泪である。



報  復


 和泉屋附近は、あらかた避難の済んだ後であった。

 お町は、人気のない家の中へ担ぎ込まれた。

『御新ンさん、わっしはかかあと餓鬼の始末をつけて、すぐ戻ってめえりやす。火が近づいた時あ土蔵へ逃げた方がようござんすぜ』 

 云い残して銀次は、走り去った。

 お町は、柱や壁で身を支えながら、家の中を廻り始めた。

 なぜかは、自分にもよくわからなかった。

 憎い女、お常を探し求めた、というのは当たらない。人の気配はないのだ。

 身の証を立てる証拠を探し求めた、と云えば近いかも知れない。

証しとは命を助かろうとするのではなく、姦婦でも悪女でもない事をわかって貰うためだった。命はどうあがいても断たれる運命にあった。ただ夫殺しではなく密通でない事を明らかにするまでは死んでも死に切れないと思った。

 焼け死ぬにしても、お仕置を受けて死ぬにしても、陥し入れられたままで死ぬことは、たまらなかった。

(医師宗順からの手紙、書付の類いに真相を示す字句があり、それを銀次に渡し、静かに死を待つ………)と、そんな願いを、お町は、ふと抱いた。

 もとより、そんな物が残されているはずがないが、無駄と知りつつ最後の努力をしてみる事で、心が幾分安らぐのだった。

 お町は土蔵へも行ってみた。

 入り口の錠が開いているのが妙であった。何かを持ち出してから避難したとしても、施錠せずに逃げる不用意はあり得ぬはずであった。

 誰かが、居る………。

 お町は金網越しにのぞき込んだ。

 内に居たの者は、お常であった。逃げ支度を整えた身なりであった。

 お常は、一度は奉公人たちと逃げかかったが、火の廻るまでには少し間がありそうだ、と見て欲を出し、引き返したのである。隠し戸棚の中の千両箱から持てるだけの小判を………と、お町は一見してすぐに直感した。

 お町は、ピィーン!と錠を掛けた。

 報復になるかも知れぬ………と考えたのはその後であった。

 いままさに外へ走り出そうとしていたお常は、驚愕した。

『あ!お町………』

『地獄から………這い上がってきたのさ。焼け死ぬがいい。小判を抱いて死ぬがいい。わたしは、お前が黒焦げになるまで、見届けてやる………』

 お常は、恐怖した。

 罵りが、泣き叫ぶ声となり、やがて、哀願に変わった。

 お町は、錠の鍵をお常に示し、辺りを見廻した。

 土蔵と家との間に、井戸があった。お町はゆっくりと井戸傍へ近寄り、鍵を、井戸の上へ吊るした。

『お町さん!な、何をする気だえ!』

『こうするのさ』

 お町は、愉しむように指を開いた。

 鍵は、井戸の中へ落ちた。

 煙が流れはじめ、火の粉がしきりと舞った。

『もうじき、燃え移るよ………』

『お町さん、お前は、命が惜しくないのかえ!』

『わたしは、もう死んだも同じ事。命は、ない女だよ』

『畜生!人殺し!』

 お常は口汚く罵って、蔵の中を走り廻った。

 狂ったように、鉄格子の窓へしがみつく。銀次が再び現れたのはその時だった。

『御新ンさん、も、もう危ねえ!』

『わたしは、ここで死にます………』

『何をお云いなさる。さ、おいでなせえ』

 銀次はつるべの水を、二、三杯頭からかぶって、無理強いにお町を背負い、煙の中を走った。

 男の背の上でお町は、火勢を観察した。

 和泉屋の隣家に、火は燃え移っていた。

 仇を討った………と思った瞬間、お町は心身を襲った快感にひたりながら、失神した。

 ………お町が意識を取り戻したのは、朝方だった。柔らかい布団の中にいた。銀次の伯父の家、ここは江戸の外、千住の宿場町であった。

『お気がつきなすったか………』

『………あ、銀次さん、火事は?和泉屋は焼けたんでしょうね』

 まず聞いた言葉は、それであった。

『さあ、どうでござんしょうか………』

『………焼けたでしょうか?』

『………お気の毒だが、多分、焼けちまったことでござんしょう………』

 お町は、安堵した。

 二日後、余燼のまだ消えやらぬ江戸の町を、お仕置者の引廻しが行われた。

裸馬の上に縛られた女囚、お町は悪びれた色がなかった。憎いお常を、ギリギリの瀬戸際で焼き殺す事のできた満足感は、引廻される身にのしかかる羞恥や、死出の旅路を辿る恐怖感を支えるに足りた。

 日本橋、両国橋、四谷御門外、赤坂御門外、昌平橋外………と、行列は定法通り進んで行った。

 昌平橋を過ぎた時、お町は、見てはならぬものを見た。

 黒山のような人だかりの最前部に、お常がいた!生きていた!和泉屋は、俄かに方向を変えた風によって奇跡的に焼失を免れたのであった。

 お町の心は、凍りついた。

(お町さん、いい恰好におなりだねえ。大向こうから、声がかかりそうじゃないか………)

 お常の眼が、そう云っていた。

 不意に、役人たちにとっては全く不意に、馬上のお町が、何事か絶叫した。お町は、事実上、その時に死んだも同然だった。

 刑場で、非人二人の槍に生身をえぐられても、お町は、呻き声一つ洩らさなかった。

 その眼は、とどめの槍を刺された後でもうつろに見開かれたままだったのである………。




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